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【 25/09/15 】『調査的感性術』読書会 #6<第5章|感性超過――意味を形成しないこと>
【 25/09/01 】Reading Group "ART SINCE 1900": 1924|シュルレアリスムの美学
【 25/08/18 】『調査的感性術』読書会 #5<第4章|超感性術的イメージに住まう方法>
【 25/08/04 】Reading Group "ART SINCE 1900": 1925a|アール・デコ博覧会
【 25/07/21 】『調査的感性術』読書会 #4<第3章|超感性術>
【 25/07/07 】Reading Group "ART SINCE 1900": 1925b|ノイエ・ザッハリヒカイト絵画
【 25/06/23 】『調査的感性術』読書会 #3<第2章|感性術>
【 25/06/09 】Reading Group "ART SINCE 1900": 1925c|ダダとバウハウスの人形と操り人形
【 25/05/26 】『調査的感性術』読書会 #2<第1章|知覚を超える感性術>
【 25/05/05 】Reading Group "ART SINCE 1900": 1925d|初期抽象映画
【 25/04/21 】『調査的感性術』読書会 #1<序章>
【 25/04/07 】Reading Group "ART SINCE 1900": 1926|エリ・リシツキイとシュヴィッタース

じゃぽにか+CAMP <現代アートMC BATTLE>

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じゃぽにか+CAMP <現代アートMC BATTLE>
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現代アートをめぐって、フリースタイル(即興)でラップをし、お互いに言葉をぶつけ合います。

日時:2014年3月9日(日)17:00〜19:00
場所:雑食系アート番組「じゃぽにかの誰でもデュシャン☆」@Gallery Barco(東京都葛飾区亀有3-27-27 LA CAMERIA 1F)
参加費:無料(予約不要)

<アクセス>
常磐線(千代田線接続)亀有駅南口よりアリオ亀有方面に徒歩3分
http://www.g-barco.com/acs.html

【 エントリー 】
01:村山悟郎(じゃぽにか)
02:永畑智大(じゃぽにか)
03:有賀慎吾(じゃぽにか)
04:井上文雄(CAMP)
05:小口菜緒実(CAMP)
06:菅谷奈緒(アーティスト)
07:河口遥(アーティスト)
08:吉田和貴(アーティスト)
09:後藤桜子(キュレーター/アーティスト)
10:川崎昌平(アーティスト)
11:岩井優(アーティスト)
12:鈴木大輔(じゃぽにか)
13:橋本匠 a.k.a. 抜け作(俳優、芸術家、トランスフォーマー)
14:粟田大輔(美術批評)

【 エントリー料 】
500円

【 賞金 】
優勝者:エントリー人数×500円

【 判定 】
オーディエンスによる歓声、観客の中から奇数数選出された審査員による判定
トーナメント形式で開催します

【 注意事項 】
じゃぽにか放送局でネット配信されます



じゃぽにか放送局presents
雑食系アート番組『じゃぽにかの誰でもデュシャン☆』
https://www.facebook.com/events/1458638057684030/

TALK: 0427

<Reading Room>のあとの話

<ゲスト>
橋本誠(アートプロデューサー)
川崎昌平(アーティスト)
内沼晋太郎(numabooks代表) ほか

■2005年、<Reading Room>というブック形式の「読む」アート作品、マンガ表現、ビデオインスタレーション、パフォーマンスなど、形態にとらわれず「よむ」ことをテーマにした展覧会がBankART Studio NYKで開催されました。橋本誠さんが展覧会を企画をして、川崎昌平さんや内沼晋太郎さん(Book Pick Orchestra)が作家として参加しました。
■<Reading Room>から、4年。橋本誠さんはフリーのアートプロデューサーとして活動してきました。今年の春からは東京文化発信プロジェクト室で働いています。川崎昌平さんは新書を書いたり雑誌に寄稿したりしています。現在、久しぶりの展覧会をCAMPで開催しています。内沼晋太郎さんはブックコーディネーターやクリエイティヴ・ディレクターとして仕事をしています。3月に『本の未来をつくる仕事/仕事の未来をつくる本』という本も出しました。ちょうどいい機会なので、これまでのことやこれからのことについて(どうやって食べてきたのか/食べていくのかとかも含めて)、いろいろ聞いてみようと思います。

日時:2009年4月27日(月)20:00〜22:00
会場:Otto Mainzheim Gallery(アクセス
定員:30人(予約制) 参加費:1,000円(1ドリンク付)

【 プロフィール 】
橋本誠|Makoto Hashimoto
1981年東京都生まれ。横浜国立大学マルチメディア文化課程卒業。ギャラリー勤務を経て、フリーのアートプロデューサーとして活動している。主な企画展に「都市との対話 -Dialogue with the City-」(BankART Studio NYK, 神戸アートビレッジ センター/2007年)、「KOTOBUKIクリエイティブアクション」(横浜・寿町エリア/2008〜)など。また、「Tokyo Art Beat」「REALTOKYO」、雑誌『BT/美術手帖』『ARTiT』などでもアート関連記事を執筆している。
川崎昌平|Shouhei Kawasaki
1981年生まれ。埼玉県出身。東京芸術大学大学院美術研究科修士課程先端芸術表現専攻修了。著書に『知識無用の芸術鑑賞』『ネットカフェ難民』(ともに幻冬舎、2007年)『若者はなぜ正社員になれないのか』(筑摩書房、2008年)などがある。
内沼晋太郎|Shintaro Uchinuma
1980年生まれ。numabooks代表。ブック・コーディネイター、クリエイティヴ・ディレクター。一橋大学商学部商学科(ブランド論)卒。2003年、本との偶然の出会いをプロデュースするユニットbook pick orchestraを設立、2005-2006年、book room [encounter.](北仲WHITE/横浜)などを運営。2006年「本とアイデア」のレーベル「numabooks」を設立。「TOKYO HIPSTERS CLUB」「Tokyo Cultuart by BEAMS」などの書籍のセレクトを中心に、本を軸に様々な企画のディレクションを手がける。飯田竜太、施井泰平と共にアーティストユニット「」としても活動。「numabooks CAP BOOK MARKET」(gallery ROCKET/2008)など展覧会多数。著書に『本の未来をつくる仕事/仕事の未来をつくる本』(朝日新聞出版)がある。

OPENING PARTY: 0404

オープニング・パーティー

■19時より川崎昌平「冷たく軽い城」展のアーティスト・トークを行います。

日時:2009年4月4日(土)18:00〜22:00
会場:Otto Mainzheim Gallery(アクセス
入場料:無料(予約不要)


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川崎昌平「冷たく軽い城
アーティスト・トーク
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長内:キャンプというイベントを企画している長内と申します。今回の川崎昌平さんの展示では、私はキュレーションも何もしていませんが、本日は進行を担当します。どうぞよろしくお願いします。見て頂ければ分かるんですが、言葉を使った平面作品と映像作品の展覧会になります。みなさん、川崎さんの展覧会で他の作品を見たことはありますか?

川崎:ここ2年半くらいやっていなかったので、本当に久しぶりなんです。

長内:ライターさんだと思っていた方もいらっしゃるのでは?

川崎:ずっと俺のことをライターだと思っていた人は今日は来てないんじゃないかな。

一同:(笑)

長内:あ、みなさん、アーティストだと分かっていらしたんですね。



川崎:本当に今日はお集り頂きありがとうございました。久々のことなので作っていてすごく緊張して、どうしたものかと思いつつ、まぁ、なんとか出来たのはみなさんのおかげでございます……。いやもう、本当、さすがに、久々の個展ですから、アーティストトークもあるということで、これは少しは身綺麗にせにゃならんということで、今日朝一番でちょっと床屋に行ってきたんです。もう髭がぼうぼうでしたから。裏手のほうに古い床屋さんがありまして、入ったらですね、年配のご老人の方二人でやられていて。こう、髭を剃るんですけども。おじいさんが「貴方の肌は、ひげ剃りをして経験が浅いから柔らかくて刃がよく立たない」って言うんです。

何が言いたかったかと言うと。髭を剃られていて凄く痛かったんです。めちゃめちゃ。その責任は、お前の肌にあるみたいな事を遠回しに言われて。ああ、そうですか、ってにこやかに過ごしたんですけども。剃られながら結構思い出すことがあって。すごく長かったんです。おじいちゃんとおばあちゃんが一緒にやってくれていたんですが、えらいかかるなと、思っていたんですけど。志賀直哉の小説でですね。『剃刀』という小説がありまして。タイトルが思い出せないんですけど、床屋さんの小説があるんですよ。剃刀師、剃刀師という表現がなくて床屋だと思うんですけど。剃刀師のダンナが高熱を出して、体調が悪いという時にお客さんが来て、お客さんの相手をする。床屋だから鏡台があって鏡を見ていると、ふとした瞬間に全く理由がないんですが、床屋の店主に何かが下りて来て。別にお客さんが憎いとか、お客さんが嫌いとかいう描写が全くないんですけどお客さんの喉笛をパーッとかき切っちゃう。血がバーっと飛び散るっていうすごく怖い小説があるんです。やっぱり、僕が一生かかっても追いつかないほど志賀直哉の文章っていうのは上手いんですね。どういう所が上手いかって言うと、例えば、僕さらっと言いましたけども、鏡台がある描写。店舗の奥にある自分の生活スペースでお湯がシュンシュン湧く音とか。そう言った細かい所の描写が一つとして無駄じゃなく、その文章が非常に奇麗に流れていて。それで、別に推理小説なんかじゃないから、理由なんてなく喉笛かき切っちゃうんですけど、その転末が最初から最後まで一部の隙間もなく書かれているんです。その小説ってすごく短いんです。多分、僕が読んだのは文庫よりも大きいハードカバーの「ちくま恐い話集」みたいなもので、子供向けの本なのかな。何かしら編集の手が加わったもので、4ページぐらいしかないんです。見開き2回で終わる凄く短いものなんですけど、その読後感というのが凄まじいなと思っていて。

僕は、さっきライターみたいな紹介がありまして、色んな美術雑誌とかあるいは新書書いたりとかして書く事で結構生計を立てている向きがあるんですが、本当にやりたい事は何かというと小説を書きたいと思っていて。書きたいって言い方は、将来漫画家になりたいだとか映画監督になりたいみたいな夢見がちな話みたいですけど、そうではなくて、小説書いてるんですよ。書いて発表していないだけなんですね。すごくいっぱい溜まっているんですが、志賀直哉の4ページの小説が、原稿用紙が多分12枚くらいなんですけど、そういった短編、超短編といったものを、僕も負けじと、まあ負けてるんですけど、着々と作っていこうと日々こつこつ作っています。そういった物をどうやって人に見せようかな、というかあるいはそれが全く諧謔的というか批判的な事は全くないんですが、紙媒体以外で見せる手はないのかなというか、紙媒体で見せる方法だけが本当に、この文章という物を伝える唯一の手段なのかな、とちらっと思っていて、まあ昨今はウェブとかもいっぱいあるし、もうちょっと色んな手段、色んな方法で見せられないかなっていうのが、すごく昔から疑念にあって。それで、それがこの横長に切ったキャンパスに書いた小説なんですね。タイトルはついていないですけど、小説、と僕は言い切るんですが。



この会場に入るかどうか、図面頂けるって話をしたんですけど、なんか生意気に「俺別に図面とかいらないっすよ」とか言ったらこういう結果になってしまったという感じです。家の四畳半で10メートルのロールを買ってきて、プロジェクターで1行当てては上から鉛筆でなぞって筆で書いてって言うのを繰り返していって75行だったかな? 76行だったかな? 原稿用紙三枚ぐらいのものを書いてみたって言う感じですね。実験と言えば実験なんですが、自分のやりたかったことの一つ目は確認できたかな、という感じがしています。書いてあることは「私」の一人称で書いてあるからって別に僕の実話ということでは全くないし、小説だからいっぱいフィクションが入っているんですが、まぁこういう風に見せた時にどういう風な印象になるか、どういう風な読み方が出来るかっていうことのテスト、です。

それで、テストっていう言い方に僕はとても意味があると思っていて、つまり、美術かどうかとか、美術作品としての文脈って言うのは今回特に意識してなくて、文字を使った作家っていうのは美術史的に全く珍しくないし、僕はその辺の制度として新しい事をやった、新しい実験をしたとは全く思ってないです。正直文字を読ませる方法としてどうかというだけの勝負、だけの勝負と言うとすごく卑下している言い方ですが、新しい見せ方が出来るんじゃないかと思って。まあ色んな工夫は今後もしたいと思っていて、この文字数をこれだけの長さでやるっていうのはちょっと大変ですけど、でもまあ全然いけます。

僕は絵は描けないですけど、でも友達とか作業の繰り返しだとか言う人も居ますけど、筆を持って向かう瞬間って言うのは確かにこの作品であっても同じ事の繰り返し、これ文字通り繰り返しでただなぞる、移す、書くって言うだけなので、本当全く同じ事をしていただけなんです。何が勝負かっていったらやっぱり画家とか絵を描く人もそうなんでしょうけど、やっぱり最初だと思うんです。最初のこの原稿の文字を考える所で、白黒つく。白黒つくと言うかそこで九割五分くらい作品の意味的には終わる感じですよね。この原稿描くのにかかった時間は三時間、四時間くらいだと思います。でも、あのキャンパスを買ってきてプロジェクションして塗ってという作業がまあ1ヶ月かかっちゃった訳ですが、最初にその文章で一番労力をさいたなというのが僕の感想です。



同じ事が言えるのが映像作品で、僕が2004年からずっと繰り返している、文章が張り付いていて、何でもない街、まあ何でもないってこれとかはすごく恣意的な構図ですが、でも意図的ではなくてカメラを置いただけで撮れた映像ってものに文字を張り付けていくことで何か物語を生み出そうとする、あるいは何か、このコップを撮影して、ただのコップなんだけど僕の言葉を張り付けることによってコップじゃない何かに見えたりしないかなっていうのを永遠に繰り返してるやつの最新作という具合でやっております。

他のこういうキャンパスに一行とか二行とか書いてあるものも、これはこれで実験っていう意味があって、これも一応最初に参考した作品があります。太宰治の『女の決闘』って小説があるんですが、最初に太宰治がどうしてこの小説を書くかということを延々語ってるんですね。この時太宰治が引用しているのが森鴎外の小説で、森鴎外が書いた小説じゃなくて、森鴎外が翻訳している小説のことを言ってるんですが、読まれた方は分かると思うんですけど、『女の血統』って小説は、詳しく覚えていないけど、確か何回かに渡って連載というか、連続6回か7回で上手くキャプチャーされて小説が進んでいくんです。第一回の前に序文、宣言文というか、何でこんなことやるかっていうことがあって、その第一回の宣言文の中に今言った森鴎外の文章が引用されているんです。どの様に引用されてるかと言うと、太宰治は森鴎外が大好きで、森鴎外の墓のはす向かいに住んでるというか、自分の墓があるくらいだから好きなんでしょうけど。鴎外がドイツに留学してたころとか、日本に帰ってきてから翻訳した数々のテキスト、それの第一行目だけを太宰治が書き写して語ってるんですね。で、森鴎外が訳したドイツの作家の文章の一行目だけ本にパンっと張って、それがどれだけ上手いかどれだけ素敵かっていうのを言ってる。その一行目のインパクト、一行のもつ効力ってものを語っているところを読んで、まあ実際、図書館とかで鴎外全集とかを借りて来れば全編読めて、これの一行なのかって分かるんですけど、一行だけ切り抜かれただけで相当なパワーがある。どういうパワーかっていうと、何がすごいかって、やっぱり次が気になるって事なんですよね。一行があって、例えば俺の記憶しているものだと「戸を叩いた。そっとである。」みたいな文章があるんですよ。その一行、いや正確には二行、句点二つ分なんですけど、その短い文章があって、それが書き出しだと断られていれば当然続きがあると思う。それで、その続きに対する誘惑というか、誘発力というか、実際に誘発されて図書館に行って森鴎外全集を読んで誘発されたんですけど、もっと手前で言えば、イメージさせる力ってものがべらぼうにあるなっていうのがあって。それを、さっきの志賀直哉じゃないですが真似して、森鴎外の一行にはとてもじゃないですけど及びもしないんですが、努力と研鑽でなんとか面白い一行、本当に短いセンテンスで次が気になる、あるいは次じゃなくてもいいんですけど、そのたった一文で膨らむイメージってものにアピールしたいという実験です。小さい方の作品は。そういう作品は自分でも何がしたいのかなって分析するんですけど、ひょっとしたら僕はさっき絵みたいな話をしていたけれど、本能的にはやっぱり絵を描きたい、ちゃんとイメージをして人に見せたいって欲求があって。まぁそれをどうしてかは知らないけどギリギリのところでセーブして、その一歩手前のイメージってものを文章に託して、なんとか伝えようとしているんじゃないかなぁと今日一日中ギャラリーにいて、見ながら思いました。

作品に対するプレゼンテーションっていうか、解説は大体これくらいですね。音とかは今回全く使ってなくて。昔の僕のあの種の映像作品をご存知の方は、必ず出る字幕に英語の音声が付いていた事をご存知だと思うんですけど、今回は無くて、それで、あの時もよくなんで付いてるのって聞かれたんですけど、凄く安直な事をいうと、編集のためなんですね。映像に対して字幕、文字を読ませる長さってのをどう決めようかなって思っていて、それを決める時に、初期の僕の編集方法だと英語字幕に習うように英語の音声、英語じゃなくても良いんですけど、字幕、文字を読ませたいって時に、その文字の尺を決める都合上、音というものは非常に便利だった訳ですね。で、今回はこういう作品を作るにあたって僕のスキルがアップというよりは慣れてきたんだと思うんですけど、人が文字を読む速度、あるいは映像と合わせる時間、尺の長さみたいなものが身に付いてきて、音がなくても行けるかなって感じになったんだと思います。映像に関してはそれくらいですね。

あとはまぁ、一個一個を味わってもらうと言うか、分かる分からないというよりは、もう本当にその文章が良いか悪いか、面白いか面白くないかだけなので。まぁじゃあ何でお前は白地に赤だったり、黒だったりするんだよって話なんですけど。同じ色のばっかりで作っているよりも、もしかしたら色合いとかでこう文字のイメージが変わるかもしれないなっていう実験ではあるのかもしれないなって。正直言うと僕のなかであんまりそれは重要な実験ではないというところです。やっぱり一番は文字を書くフォーマットとして、選んだというところですね。以上が、作品解説プレゼンテーションで後はまあ皆さんに。お手数ですけど作品を見るというよりも読んで頂いて、何か考えて頂ければこれにまさる喜びはないという感じで、今日は本当にどうもありがとうございました。(拍手)

何かご質問等あればどうぞ。



長内:詩と小説の違いって何なんでしたっけ?

川崎:詩と小説の違い。僕はそれを意識した事はあまりない、というか勉強が足りないから理解度が浅いんだと思いますけど。なんだろう。

長内:単文のやつだと、「詩です」っていわれたら詩なのかと普通に思ってしまうっていうか。

川崎:僕は詩のつもりではあまり書いてなくて、「今日は忙しい 嬉しい」って書いてあるけど、やっぱり僕はそれは文章であると。あれとかは実体験というか文章で食ってるって言ってもそれで売れてる訳じゃないんで、仕事がない日とかもたくさんあって、ひもじくて汲々としてるんですけど。今日は締め切りとか打ち合わせがあったりとか、忙しいなやったーってところがあって、それを詩とは呼ばないと思いますね。何でかっていったら、その心情っていうのをそのまま書いたらそれは赤ちゃんや子供が転んで、「痛い」っていうのと同じレベルでそんなものは詩じゃないですよね。なんでかって、言葉が感情とか状況とかを抽象化させる能力を持っていないと、僕は詩じゃないと思うから。まあ僕が偉そうにいえないんですけど、あれが詩だったら相当面白くない詩だと僕は思います。

じゃあ句読点を付けるって話なんですけど、まあ句読点を付けなかった理由っていうのがまあこれカッチングプロッターで発注するってのもあるんですけど、あれ高いんで、自分でカッティングシートを切ってカッターで貼ってるんですけど。まあそれもそうなんですけど、分かったのは一番日本語で難しいのは句読点であると。描きにくいのはと。丸とか点ほど小癪なものはないなと。実際の「際」の字なんてどう書いてもそれに見えるっていうのがやってて分かりまして。こんなスキルはどうでも良いスキルなんですが。あともう一つ句読点ってどういう意味があるのって言われたら、やっぱり文章の中での句読点っていうのは我々がその口語で文章を書くようになって、つまりその口、しゃべり言葉の流れ、抑揚、センテンスのリズムを生かすために紙媒体の文字として多分、句読点っていうのはあると僕は思うんですけど。外したのは、リズムとか強制する事はなく好きなように読んでもらうためで、あれとかも日本語のルールに従えば右から読むんでしょうけど、下から「嬉しい 今日は忙しい」って読んでも、そんなバチは当たらないと思うので、そういう意味では句読点っていうのを減らした方が味わい良いかなっていう、感じですね。



長内:デザインの仕事をしていると、文章とかタイトルとか展覧会とかもそうですけど、文字組みなんかを強調したい所だけ色を変えるとか、フォントを変えるとか大きさを変えるとかやりますよね。その言葉で伝えたいイメージを視覚的にも、書いていくっていうか。川崎さんの場合って、フォントは基本的に所謂通常のものを使っていて、こういう風にダーっと流しますよね。本を大きくしたみたいな。キャンバスを使った短いのは、ちょっとずらして配置したりだとか、余白との関係だとか色々それぞれ変わってきていると思うんですけど。でもそれが、本っていうか手に持てるものとして自分のサイズのなかに収まるものと、こういう風になっていることってどのくらい違う物なのかっていうのを教えてほしい。もちろん視覚的には違うんですけど、今ここにあるものを一回紙に落とし込んで、自分の手に持てるサイズに同じようにあるのもを見たときとの違いはあるのでしょうか。

川崎:同じ事で言うんであれば、僕は同じ文字に対してであるんであれば実験の結果明らかであってきっと同じ結果だと思います。それもこれをやったから分かったっていうのがあるんですけど。僕はきっとどれだけ字を、美術的装飾的にデザインしようとしても内容的には勝らないんじゃないかなってところを結論づけようかなって。自分の中でですけどね。一般的にそういうもんなんだって俺が言おうとしてるんじゃなくてね。



参加者:例えば、「小さな悲鳴の後 二本の酒瓶が観客席に 倒れていた」っていうあの作品を作る時に、あの大きさと大体同じくらいの比率のものに原稿を書くんですか? それとも原稿は原稿で、それをキャンバスに写し取る時に配置をどうしようかって考えているんですか?

川崎:それは後者だと思いますね。自分が原稿用紙に書いた物を、大きくしただとか配置だとか黒字に白だとか、例えばあの直方体や立体についてるっていうのはきっと読ませるための導線っていうか、読ませるためにちょっとこうしたらっていうものなんですけど。でもさっき自分が言った事と矛盾していて、そんな工夫がなくてもあの一行はあの一行だし、あの絵があろうが無かろうが一行はきっと一行だしっていうのがあると思います。

参加者:では作業工程としては、ここに長い文章があってここ削ったらどう見えるんだろうかとか、といった感じでしょうか? それとも…。

川崎:それはありますね。

参加者:ここに余白があるような。ここに元々文字があって、ここに何かがあるんだろうなって思ったりするんですよね。

川崎:ああその見方凄く嬉しいというか、面白いし、勉強になります。実際そういう問題あるんですよね、せーのでカッティングシートで。でも、あれにカッティングシートをするわけじゃなくて、ここでこうやった後にペタって貼ると。でペタって貼るときに、「この単語はいらない」とか「このセンテンスはいらない」っていうのがあって。あるいは別の文章で書いたはずなのに、作業工程的な話をするとこう切って貼ってくっつけたら別の一行が出来たってこともある。

参加者:そう考えるとここの長い作品に関しては、最終形のものがかかれているっていうことですね。

川崎:そうですね。

参加者:でも、こっちの方をみると過程みたいなものを表現しているのかなって。

川崎:その読み取り方は嬉しいですね。

参加者:これ凄く長い文章が書いてあるじゃないですか。ここに書かれている文章っていうのは「少し驚く」だけなんですよ。なんかそういう過程みたいなのを見せようとしているのかなとか。(笑)

川崎:実際そうですよね。さっき言った様に最終形。完全に自分の書いた文章とプリントアウトしたのと自分が手書きで書いた文章がぴったり合ってるっていうのにするには色々練りました。さっき二時間ちょっとで書き上げたって言いましたけど、二時間ちょっとで書き上げるくらいだからその前に色々書いてるわけですよね。どういうのにしようかなって思って。もっとおどろおどろしいのっていうのもあったりはするんですけど、初めてやるし複雑な文章は無い方がいいのかなって。色んな事考えたんですけどね。



参加者:まず一つと聞きたいのは、これっていうのは完全オリジナルで創った文章なんですか? なにかしらの文学作品を見て受けた自分の影響だったりしますか?

川崎:オリジナルです。実際の現物の小説とか文章から読むことによって受けた影響って言われ方をすると、たぶんきっと色々なものから影響を受けてるはずなので、そういったものはいっぱい出てるんじゃないかなぁという気はしますね。でも、この作品については明確に誰それの文学作品の影響を受けた、っていうことは無いですね。

参加者:じゃあ、それは文学的なものっていうか、視覚的にヴィジュアルで何か見るっていうよりは、例えば文学的な何か意図があるみたいな、音のリズムだったりするんだと思うんですよ。それは読んでて理解してってことじゃないですか。それは多分こういうキャンバスじゃなくても、例えば本だったりするのでもいいわけじゃないですか。

川崎:もちろんそうです。これがもし本のページだったとしてっていうことで、それをおもしろく読ませるメディアっていうのを僕は探しているんですよ。実際問題として、これが仮に印刷物としてできて、それを例えば今日いらっしゃっている方々の人数分見せることも、僕は紙媒体だと結構難しいっていうのが、2年間くらいずっと文筆業を続けてきた感想なんですね。お前が知らないだけだよ、あるいはお前の能力が低いからそういう仕事が来ないだけだって言われると反論できないんですけれども、僕の今の状況では、今おっしゃったように自分の書いた文章、この程度の文字数のものを紙媒体というものを通じ、人に見せるのは難しい、っていうことから最初の発案っていうのは生まれているので、これくらいのサイズなんて駅のポスターとかで貼ってたら珍しくないし、それに書いてある文章とかっていうフレーズの仕方も全然珍しくないので、何のサインもないんですけれども、じゃあそういう紙にやるよりは、こうやって展示会場で見せることによって、読んでくれる人の数、あるいは読んでくれる人の種類を増やせるんじゃないかなぁっていう意図はあります。



参加者:最初に来た時にすごいプロパガンダじゃないですけど、そういう風にちょっと見えてしまったんですよ。

川崎:プロパガンダ、何かの宣伝ってことですか?

参加者:そうですね、なんか政治的な……。例えば右翼ってあるじゃないですか? あんな感じが……(笑)なんか北方領土返せじゃないですけれども。

川崎:なんかよくねぇ、やってますもんね、張り紙とか。でもその印象ってのは、凄く面白いなと思うんですけれども、で、その印象とかが最後に変わるっていうのは、やっぱり文字を読むことによって変わってくると思うんですよね。俺も経験はあります。なんか真っ白なところに赤く日本語が書いてあるから、あぁ右翼のポスターなんだなと思って、良く見たらなんかこう労働なんとかだって書いてあって、あぁ左っぽいのかなと。どっちかわかんねーな、みたいなことが書いてあったんです。

一同:(笑)

川崎:やっぱり、そうですよね。今おっしゃったことは結構重要なエッセンスですよね。印象からどうなるか。

長内:単純に入ってきた時の印象っていうか、一番最初に見せて頂いたときも、なんか不穏な感じがしましたよね。ガラスに書いてあったりとか、割れてるものとか、あと色の選び方が結構独特だなぁと思いました。

川崎:いやぁ、展示のやり方とか見ても、皆さんわかっておられると思うんですけど、あんまり上手じゃないっていうか、飾るところまでを含めて美術作家というのであれば、俺は美術作家じゃねぇな、みたいなことを昨日の夜仕込みしながらちらっと思ったんですけれど。不穏な感じ、干し柿の話をしているだけなんですが、不穏な感じがしないでもない。まず、この「私」っていうのは季節と庭の話をするような人間、男か女かもちょっとわからないですけれども、まぁ文章的に男っぽいのかなっていう気がしますが、干し柿の面倒をちょいちょい見られるぐらい暇なのか、みたいな色んな想像が働いたりするところではあるかなぁと思いますが、種類を増やせばもっと色んなことができるかなという気もします。ご意見ありがとうございます。勉強になるというよりは……次の糧になります。



参加者:今日来て面白かったのが、文字を主体にした作品じゃないですか。そうなると、作品以外の文字ってもの、一番面白いのが「お手洗い」で(笑)。やたら文字に対して……しかもちょっとこのギャラリー自体古い感じで、言ってしまえば汚らしいじゃないですか。その中にテクスチャーも結構色文字な感じのやつがあったりして、その中で合ってるというか、面白いなと。

川崎:そうですね。まあ歩いていたりとかこういう室内とかいたるところに文字があるっていうのは非常に当たり前で、そういった中で着想があったり、そういう中に自分のこう混ぜたらとかいうのを思ったりというのはきっとあります。だからどうといった話でもないですけど。

参加者:「お手洗い」もそうですけど、床の窪みに置いてあるこれも結構面白いなと思って。ちゃんと場を使っているなというか。

川崎:ありがとうございます。

長内:ぴったり床の窪みにはまってますよね。偶然だったらしいですけど。

参加者:意図的にやったんだと思いました。

川崎:僕は壁に平面を飾るという経験が初めてで。今までは映像とかを主に作っていたので、プロジェクターを置けばそれでいいやみたいなところがあって。展示っていうもの自体にひどく懐疑的じゃないけれども、あまり重視していなかったんですが、そういうものを作ってみるとわかるというか、発見がある感じがしますよね。

参加者:最初に文字を読ませるっていう方法はどういうのがあるかっておっしゃったじゃないですか。

川崎:はい。

参加者:展示もやっぱり考えないと。それで読ませる方法なので。単純に絵にすればいいというわけでは。

川崎:まあそれはそうですよね。

参加者:今回は偶然かなんかわからないですけど、あ、お城!みたいな。

川崎:偶然あったということにしましょう。じゃあ。

長内:他に皆さん聞きたいことがあれば。



参加者:僕が受ける印象として非常に漢字的なコントラストみたいなことを意識的にされている感じがしたんですが。

川崎:ああ、気付かれた方は気付かれたかもしれないですけど、このキャンバスの絵なんですけど、ちっちゃな「つ」とかちっちゃな「や」「ゆ」「よ」とかは絶対使わないとか、あるいは伸ばす音、カタカナは使ってないと思うんですけど、カタカナは排除するということは結構意識していました。漢字っていう話でいくと、さっきCAMPの井上さんとお話したんですが、「なんでこういう生活してるの?」って言われて。高校の時、僕は漢文が好きで漢文学者にずっとなろうと思っていて、文学部とかを受験したんですが、なんかこの道に来てしまいました。漢字のインパクトというかビジュアルが一つの「もりもり」な感じで意味を持たせられているわけですよね、多分。平仮名も音を発音するくらいしか機能がないですけど。

参加者:今の文章って、やっぱり平仮名化する傾向があると思うんです。そういうものに対して表れて来ている、このスタイルの漢字のテクスチャーみたいなものが、こういう風に掲示されることによって、やっぱり受ける印象としては押し迫って来られる様な。それがもしかすると、さっきおっしゃってたような政治的プロパガンダにつながるのかもしれないし、なんかトゥーマッチなイメージがあるんですよね。

川崎:でも、どう思われます?

参加者:僕は好きですし、例えばちょっと時代を遡ると、僕だったら映画の市川昆の使っている明朝体のそういうタイトルだったりとか、そういう題字と比較しちゃったりとかして。それもやっぱりあの人が生み出した手法というか。そこであの人がああいう形で題字とかを明朝体でガーンと掲示するっていう方法がすごい印象的で。

川崎:今面白いことをおっしゃるなと僕も思ったんですけど、これから先の話で、日本語は、むしろ漢字化するんじゃないかっていう予感はありまして。タイトルとかものの名前とか、漢字の圧縮率があんまり体面積を使わないわけじゃないですか。

長内:コストパフォーマンスとか。

川崎:コストパフォーマンスが漢字のほうがいいっていう発想に僕はこれから先20年位なるんじゃないかなっていう気がちょいちょいしていて。ちょっと今ぱっと気の利いた具体例を言えないですけども。看板作るにしたって「ハンバーグ」って五文字使うよりは、なんかこう「肉」みたいな。それじゃちょっと略してないけど。

一同:(笑)

参加者:写植はあんな風になって来てますからね。平仮名使ってるのそれですからね。文字数たくさん持っとかなくちゃいけなくて印刷屋にとっては不便ですし、平仮名だけだったら50文字だけですみますから。

川崎:なるほど。

参加者:だからアルファベットだと27文字ですむから、それが楽なんですよね。管理コストがかかるので、その分漢字使ったほうがいいかなっていうのはありますね。

川崎:コスト面で、ですね。

参加者:そういうのはほんとにあると思う。

川崎:あるいは人間の精神的なコスト。発音する文字数が少ない方が、エネルギー消費量が減りますよね。貧乏なのでやっぱり消費カロリーを抑えなきゃいかんと。

長内:(笑)単純に中国の人口がすごく増えて、漢字文化圏じゃないですか。韓国ってハングルで、一時漢字を教えなくなってたんですけど、今また小学生とかに漢字を教え始めてるんですよ。それはその漢字が分かっていると、日本語にしても中国語にしても見ただけでなんとなくイメージがつく。それは便利っていう意味でもあるし、これからアジアの行き来が増えた時にちょっとでも読めたほうがいいじゃないですか。私たちもそうですし。中国とか行ってこういうこと書いてあるんじゃないかなって大体分かったりする。



参加者:これがアートとして語れるのって、コンセプチュアルアートでテキストをばーっと書いていてそれを絵として飾るのって結構多いじゃないですか。それとの関連って考えていらっしゃるんですか? それ僕聞いてなかったかもしれないです。

川崎:説明してないですね。いますよね。バーバラ・クルーガーみたいのとか。でも、あまり考えていないっていうか。例えば、それこそ家に遊びに来た友達があれを見て河原温っぽいねって言ったのを聞いて、そう見えるんだと思って、僕はショックじゃなかったんです。あーそう見えるんだと思って。僕は誰かの作品に対して、何か意見を述べるときに、最大限深く解釈するというスタンスでいつも文章とか書いてるんですけども、ひょっとしたら河原温とかも日付だけしか書いていないけれど1日かけて丁寧に作ってるじゃないですか。その1日の思いを抑制して1行にまとめてるってことは無いかなっていう。1日中ずっと書いてるんですもんね。その1日の思考ってものを数字にガツンと込められているのかもしれないなって。そういう意味で、河原温だって確かに今おっしゃったように日本語じゃないですよね。アラビア数字だから数字ですよね。Mayとか使ってますし。エイプリルうんぬんっていったら英語ですよね。ああいうアプローチの仕方も考えたこともあります。ありますけどやっぱり、それは第一に英語というか他所の言語が苦手っていうか日本語すら上手くないのに他所の言語に手を出してる場合じゃないって思ってるんで。そういった意味で放棄したっていうのもあるし、美術的な今までの作品をちゃんと比較して積み重ねて作品を作るっていうのをやっぱり放棄してる。そういった次元だとやっぱりそれはそれで書いてあることが大事だと思うんですけど、書いてある意味を誰にどう伝えるかとか、あるいは書いてある意味をどうプレゼンテーションするかが大事になってくると思うんですよ。でも、僕はもうちょっと自由度を残したいと思っていて単純に読んでこれ面白くねぇやとか、何書いてあんだとか、ふーんみたいな感じの読む側の自由度を残しておきたいんです。言ってみれば要するに書いた文章にジャンル付けをしたくないという感じがあった。何考えてもいいよという読後感を演出するためっていうのがそのアートのとこまで行ってない理由ですかね。行かせようとしてないっていう。

参加者:なんかそれだったら他の表現手段もあるんじゃないかって思うんですが。例えばキャンパスだったり手段ってものに対してももっとアプローチの仕方ってありそうですよね。

川崎:種類はそうですよね。いくらでもあると思うんですよね。多分、大元が一応紙媒体を押さえた上でスタートしてるっていうのがあって、違うところを探してるっていうのがあるんですよね。紙に書けばいいじゃんっていうのは尤もな話なんですけど、その紙に書けばいいじゃんってところをやった上で、何かもうちょっと別のものないかなっていうのが僕の現状なので、言うほど紙に書き尽くしてないだろって言われれば本当にその通りなのでまだまだそっちも捨てずに今後も書いていくし、全然続けるつもりなんですけど、その後こういうものをどうやっていくかっていうのは色々、確かにおっしゃる通り色々あると思うんですけどね。



参加者:全部縦書きにしてるのってなぜですか?

川崎:それは多分さっきの漢字の話に繋がるんでしょうけど、多分漢字とか平仮名とか上から下に読むほうが読みやすいという。

参加者:映像の時は?

川崎:映像の字幕も本当は縦がいいんですよ。現在のところ僕が縦の映像の文字を入れる労力を払えなくてですね。

参加者:ドラマとか映画でありますよね。

長内:あります。あります。

川崎:フランス語が縦に出てくるとか、そういう工夫は重ねたいなと思うんですけども。後は純粋に原稿用紙に向かって書くときにおまえは縦か横かって自問自答するとですね、やっぱり縦書きをするんじゃないかと。これは別に俺は古い人間ですけど

長内:手書きしてるんですか?

川崎:え、だっていきなり勝手にカンバスや映像に書くのは乱暴でしょう。

長内:いやいや、パソコンで打ったりとかして。

川崎:本当にすごい文字数の時は、例えば新書書き下ろす時とかは10万文字くらい書きますからそれはパソコンで打ちますけど、最初に短いアイディアを練る時とかは縦書きにする。縦書きにする理由はたった一つしかなくて、手で書くときは縦で書いたほうが早いっていう。

長内:じゃあほとんど書くんですね、最初。

川崎:最初はそうですね。

長内:手書きで文章を書くとか久しくしていない気がします、私は。

川崎:ああ。でもちょっと思うんですけど、例えば800文字の映画のレビュー書いてって言われるとするじゃないですか。で、書くと。いろいろ書いて、直したりして、書いて、直したりしてって。で、ワープロで直していると僕のワープロの使い方が悪いんでしょうけど、やっぱり最初に書いたアイディアとかって、書いているうちに消えていくんですよね。でもなんかこう原稿用紙に書いていると、今までで一番すごいなって思ったのが中島敦の原稿用紙っていうのを僕見たことあって。あれは『李陵』だったかな。『李陵』の最初の原稿用紙1枚目とか、400字詰めの余白部分があるじゃないですか。余白に2000字は書いてあるなっていうくらい書いてあるんですよ。

長内:(笑)赤字で?

川崎:校正ではなく、書いている段階での推敲でしょうから、黒字です。傍注したりとか、加筆したりとか……原稿用紙3枚分くらいを最初の一枚目にインサートしていくんです。すごいなあと思って。それは結局書き手にとって、メリットがあるからということですよね。自分の思考の形跡が原稿用紙にしっかりと蓄積されていく様子が、筆者本人にわかるようになっている。ワープロだとそうはいかないっていうか。一回書いたものを「うーん、だせえな」と思って消しちゃう、というか書き直す。で、書き直して最初の方が良かったってことがあると。まあそうならないように、そういうことをいちいち別名で保存とかっていうことをすればいいのかもしれないですけど。まあしますけど、大事な時とかは。

長内:そうですね。あー、あれ何て書いたっけとか。

川崎:あっれー、昨日の自分の方が良かったなとかってのはままある事件ですよね。

参加者:今回のものはワープロを使ったんですか?

長内:手書きですか?

川崎:文章を産みだすときは手描きです。それをカッティングシートに貼って切るから、そのデータ作る時はデジタル作業しますよ。

参加者:最終的にこういう作品にしようって考える時っていうのは、ワープロを使うのか、それとも手書きでこのくらいのサイズのキャンバスにこういう文字が入って、こういうレイアウトで、たぶんこういうアトリエの空間の中でこの辺に置くとそれが一番見えるかなっていうのは?

川崎:それはしないですね。おっしゃるのは、要するに最後のアウトプットまで含めて手で書いているのか、エスキース的なものを含めてかっていうことですよね?

参加者:空間があって、ここに置くのか、ここに置くのかで全然文脈変わってくるじゃないですか。

川崎:ここに置くときにセンターに書くのか右端に書くのか、長く書くのか短く書くのか。そういうとこは全然踏まえていないですね。

長内:じゃあ、みなさんこの後も普通に質問受けます。叱咤激励でも何でもいいです(笑)まだ飲み物もありますのでゆっくりしていってください。

川崎:どうもありがとうございました。

EXHIBITION: 0404-0503

冷たく軽い城

<参加作家>
川崎昌平


■アン・シャーリー(赤毛のアン)はあらゆる事象に自ら命名を施すことによって、対象との距離をコントロールしようとした。その目的はおそらく、イメージの励起にあると思われる。物体へのイメージを増幅させる手法として、命名という行為を重んじ、そして楽しんだのである。
■書くという作業にも、似たところがある。さりげない、見落とされがちな相手を、文章によって描写するプロセスには、思考があり、興奮があり、そして歓喜がある。そうして編まれた「書かれたもの」は決してイメージそのものではないが、しかし、イメージのための準備として機能し、あるいはまた、読み手に、聞き手に、語り手に、絶え間ない愉悦の時間を与える可能性がある。(川崎昌平)

会期:2009年4月4日(土)〜5月3日(日)
時間:12:00〜19:00(土日祝は18:00まで)
会場:Otto Mainzheim Gallery(アクセス
入場料:無料(予約不要)

【 プロフィール 】
川崎昌平|Shouhei Kawasaki
1981年生まれ。埼玉県出身。東京芸術大学大学院美術研究科修士課程先端芸術表現専攻修了。著書に『知識無用の芸術鑑賞』『ネットカフェ難民』(ともに幻冬舎、2007年)『若者はなぜ正社員になれないのか』(筑摩書房、2008年)などがある。

TALK: 1203

共同体と“開かれた”アート 〜アートと公共性の関係〜
第一夜:アートは、何とどうやって関わっていくのか


<ゲスト>
東谷隆司(キュレーター)
池田剛介(美術家)
卯城竜太(Chim↑Pom)
遠藤水城(キュレーター)
川崎昌平(アーティスト)
杉田敦(美術評論家)
<モデレーター>
Arts and Law(作田知樹)

■Chim↑Pomの「ピカッ」事件、世田谷美術館の横尾忠則展で地元教育委員会が鑑賞中止を決めた事件など、 日本各地でアートと共同体との緊張関係が取りざたされた2008年。
■美術史をひもとけば、かつて公共的な空間に出現したアートの中には、リチャード・セラの『傾いた弧』、クリストや川俣正、クシシュトフ・ヴォディチコの一連のプロジェクトなど、公共空間そのものを作品/プロジェクトの成立に不可欠な場としたものだけでなく、そこから公共空間におけるアート、あるいはアートと公共性をめぐる有意義な論争を導いたものが数多くありました。
■今回のトークイベントの開催は、最近の国内での事件をきっかけにしていますが、その是非を問うたり、社会現象として論評するのが目的ではありません。インターネットの日常化や、いわゆる“新公共管理”の手法が広がりつつある現代において、“アートによって開かれていく公共的な対話”を可能にする基盤をどう創るか? ということを改めて問い直す場となることを希望しています。
■トークは二夜に分けて行われます。まず第一夜では現代社会で活動するアートの作家、企画者として、公共という問題をどう考え、どう関わるか、最前線に身を置く当事者たちの問題意識が浮かび上がります。そして第二夜では、第一夜で浮上した議論を踏まえ、アートに限らず、表現と公共の「コード」の関係について、法学者、アクティビスト、評論家、公共美術館の一員として奮闘してきた方々とともに、現在と地続きの未来に待ち受けている公共的な規制について考えます(予定)。興味をもたれた方は、どちらか一夜のみでも結構ですが、ぜひ両夜を通じて一緒に考えていただければ幸いです。
■当日は会場の参加者も交え、ポジティブでリアリティのある討論を行いたいと思います。アート関係者、愛好者に限らず、現代社会における公共性や倫理について関心をお持ちの方など、様々な来場者をお待ちしています。
作田知樹(Arts and Law)

日時:2008年12月3日(水)20:00〜22:00
会場:Otto Mainzheim Gallery(アクセス
定員:30人(予約制) 参加費:1,000円(1ドリンク付)

定員を超えましたので、予約受付は終了しました。

【 プロフィール 】
東谷隆司|Takashi Azumaya
インディペンデント・キュレーター。1968年生まれ、東京藝術大学大学院修了(専攻:油画)。世田谷美術館に5年間在籍後、東京オペラシティアートギャラリー、「横浜トリエンナーレ2001」スタッフ、森美術館を経て、2004年よりフリー。近年の企画に「GUNDAM 来たるべき未来のために」(サントリーミュージアム天保山、大阪、上野の森美術館、東京、他巡回、2005-07)、「2008釜山ビエンナーレ:現代美術展」(釜山市美術館、2008)のキュレーターチームに参加。
池田剛介|Kousuke Ikeda
美術家。1980年福岡県生まれ。 東京藝術大学大学院 先端芸術表現科修了後、文化庁在外研修員としてアメリカ留学。樹脂や鏡など、様々な素材を用いながら、近年は主に平面作品を手がける。2007年にはクシシュトフ・ヴォディチコの東京藝術大学での講演会の実現に尽力。東京藝術大学非常勤講師。
http://d.hatena.ne.jp/kosuke_ikeda/
卯城竜太|Ryuta Ushiro
Chim↑Pomリーダー。
Chim↑Pom:2005年に結成されたアート集団。2006年に開催された初個展「スーパー☆ラット」で注目を集める。「生と死」をテーマにした作品が多く、 2007年にはセレブと地雷除去をテーマにした「サンキューセレブプロジェクト アイムボカン」が広島市現代美術館「新・公募展2007」の大賞を受賞。2008年10月、広島市内上空に飛行機雲で「ピカッ」の3文字を描いたことが問題になり、11月1日から広島市現代美術館で開催される予定展覧会が中止に。現在、事件のについての本を準備中。
遠藤水城|Mizuki Endo
キュレーター。アーカス・プロジェクト ディレクター。1975年札幌生まれ。九州大学博士後期課程単位習得満期退学。 2001年、福岡市で「都市型アートプロジェクト rhythm」を設立。雑誌発行、実験音楽イベント、展覧会、映画上映会、アートプロジェクト等さまざまな企画を展開。2004年、博多区に誕生した「アートスペース・テトラ 」設立の中心的な役割を担う。同年より日本財団APIフェローとしてフィリピンに6ヶ月、インドネシアに5ヶ月滞在し、現代美術の現状を調査。期間中マニラで地元アーティストと共に「Future Prospects Art Space」を設立。2005年、ベルガモ近現代美術館(GAMeC)が主催する若手キュレーターを対象とした国際賞「ロレンツォ・ボナルディ・アート・プライズ」に長谷川祐子の推薦を得て、アジア代表として参加。同賞を受賞。それに伴い2006年同美術館にて「Aesthetics / Dietetics」展(参加作家/小沢剛、高嶺格、ガリー・ロス・パストラナ、乃美希久子)を開催。同年「シンガポール・ビエンナーレ2006」ネットワーキング・キュレイターを務める。2007年、Asian Cultural Council日米芸術交流プログラムの助成により米国に滞在。同年、水戸にオルタナティヴ・スペース「遊戯室」を設立。東京芸術大学非常勤講師。Art Initiative Tokyo(AIT)による教育プログラム「MAD」キュラトリアル・コース講師。共訳書にジェイムズ・クリフォード『ルーツ -20世紀後期の旅と翻訳』(月曜社)がある。
川崎昌平|Shouhei Kawasaki
1981年生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻修了。文章表現をベースに幅広く活動するアーティスト。著書に『知識無用の芸術鑑賞』『ネットカフェ難民』(どちらも幻冬舎新書)『若者はなぜ正社員になれないのか』(ちくま新書)がある。『美術手帖』『翼の王国』などの雑誌に寄稿。
杉田敦|Atsushi Sugita
美術批評。アートと旅、人生と友人、愛、思想が混濁。art & river bank ディレクタが混濁。女子美術大学准教授で混濁。リスボンが混濁。モランゲイロも混濁。サハラで開眼するも、ジブラルタルを渡ってアンダルシアで即座に閉眼。現在睡眠中。著書に『リヒター、グールド、ベルンハルト』(みすず書房)、『ナノ・ソート、現代美術で考察するということ』(彩流社)などがある。
Arts and Law|アーツ・アンド・ロー
芸術家の活動に関する法分野(芸術法、Art Law)の研究と情報提供を行う非営利組織。2004年に東京で設立。アーティストの自由な表現活動を励ますパートナーでありたいと考えるボランティアの専門家(主に法律、知的財産関係)が中心となって運営。アートに関連する法律や契約の知識に加え、自らアートの現場に関わり、アーティストの置かれた立場や思考にも精通している専門家が、無料のメールや対面での相談を通じて、相談者の状況に応じた的確な情報を提供している。 情報発信以外にも、文化政策への提言や、アートと社会の関わりやアート関係者同士の横のつながりを作るイベントを行っている。mixiのコミュニティには2600人を超える参加者がある。
http://arts-law.org/

TALK: 0801

官能と文間
官能小説から読み解く「文間」という文章表現のありかたについて


<ゲスト>
川崎昌平(小説家/美術家)

■「一つの文と文との間をどのようにして飛ぶか、その筆勢は教えにくいもので、会得するほかはない。その人の持っている特色です。この文間文法の技巧は、ぜひおぼえてほしい」(鶴見俊輔「文章心得帖」より)。
■馴染みがあるようで、あまりない、わかるようで、やはりよくわからない、「文間」の概念。その「文間」の意味を問うべく、また、あるかもしれない可能性を追求すべく、異端文士川崎昌平が立ち上がった。官能小説における積年の研究をベースに、広く文章表現全般に渡って思考を重ね、実践的に言語を構成した成果をちらりとご紹介するワークショップ。アカデミックな要素がありそうで実はまったくない哄笑必至のトークショー。でもひょっとするとひょっとして「官能」と「文間」の不思議な相互関係が見えてくるかもしれません。

日時:2008年8月1日(金)20:00〜22:00
会場:Otto Mainzheim Gallery(アクセス
定員:30人(予約制) 参加費:1,000円(1ドリンク付)

【 プロフィール 】
川崎昌平|Shouhei Kawasaki
1981年生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻修了。文章表現をベースに幅広く活動するアーティスト。著書に『知識無用の芸術鑑賞』『ネットカフェ難民』(どちらも幻冬舎新書)『若者はなぜ正社員になれないのか』(ちくま新書)がある。『美術手帖』『翼の王国』などの雑誌に寄稿。

PRE-TALK: 0327

「文化的参加(Cultural Participation)」の続き

<ゲスト>
芦立さやか(コーディネーター)
岩井優(美術家/Survivart代表)
尾角朋子
長内綾子(フリーランスデザイナー)
川崎昌平(美術家、小説家)
菅絢子(美術家)
栗山斉(現代美術作家/IAV運営コーディネータ)
黒瀬陽平(美術家/アニメ評論家/Review House編集員)
緑川雄太郎(雑芸員)
山本紀子(デザイナー)

2月28日のプレ・トークでは、とっ散らかりながらも、「批評」「責任」「トークイベント」などの問題について、ほんの一部かもしれませんが、ゲストのみなさんが考えていることを伺えたと思っています。今回は前回の内容を振り返りながら、なにができるのかについて建設的に話し合う予定です。

日時:2008年3月27日(木)20:00〜23:00
会場:Otto Mainzheim Gallery(アクセス
定員:30人(予約制) 参加費:無料(1ドリンクオーダー)

【 プロフィール 】
芦立さやか|Sayaka Ashidate
1982年北海道生まれ。2005年武蔵野美術大学造形学部芸術文化学科卒業。在学中にギャラリーのバイトを経験後、2005年より BankART1929(横浜)勤務。展覧会の企画やアーティストインスタジオなどのプログラム業務に携わる。同時期に吉田有里と共にYOSHIDATE HOUSE(北仲WHITE/横浜)をオープンし、同世代作家の初個展を中心にパーティーなどを多数企画。BankART退職後、アーティストのコーディネートなどで様々な展覧会等に関わる。「Yokohama Boogie : Under the Influence」(ZAIM/2007年)。「GR写真展」(東京芸術大学小島アートプラザ/2008年)など。現在次の活動に向け準備中…。
岩井優|Masaru Iwai
1975年京都府生まれ。美術家、Survivart代表。東京芸術大学大学院美術研究科博士課程在籍。
http://masaruiwai.exblog.jp/
尾角朋子|Tomoko Okaku
1977年東京生まれ京都育ち。京都産業大学外国語学部英米語学科国際関係専修卒業。エディトリアル・デザイン事務所を経て、医学書専門出版社に勤務。2005年の出版社勤務をスタートに、アート関連のフリーペーパーやartdropsでの執筆を開始。また、2007年に自作の冊子用いたインスタレーションを発表。現在は、次の展開を検討中。
長内綾子|Ayako Osanai
1976年北海道生まれ。フリーランスデザイナー。武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。ウェブ制作会社勤務後、独立。地域通貨「earthday money」のデザインがきっかけとなり、2003年4月渋谷川再生をテーマとしたアートイベント「川遊び×SHIBUYAscape」を主催。そこで岩井優と知り合い、2004年11月にSurvivartを立ち上げ、現在に至る。主にPRやコーディネーターとして活動中。
川崎昌平|Shouhei Kawasaki
1981年生まれ。東京芸術大学大学院先端芸術表現修了。映像作品やインスタレーションなどを発表するかたわら、美術評論、小説執筆などにも励んでいる。著書に『知識無用の芸術鑑賞』『ネットカフェ難民』(ともに幻冬舎刊)がある。2008年6月に筑摩書房より『二十六歳の就職活動』を刊行予定。
菅絢子|Ayako Kan
1981年埼玉県生まれ。東京芸術大学音楽環境創造科卒業。4月より同大学大学院映像研究科修士課程に在籍。
栗山斉|Hitoshi Kuriyama
1979年兵庫県生まれ。現代美術作家。IAV(井野アーティストヴィレッジ)運営コーディネータとして企画・運営にも携わる。東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程在籍。
http://hitoshikuriyama.blogspot.com/
黒瀬陽平|Yohei Kurose
1983年高知県生まれ。東京芸術大学大学院先端芸術表現専攻修了。美術家、アニメ評論家、Review House編集員。平面、立体作品を中心に制作。専門は絵画論と、主に2000年以降の「萌えアニメ」についての表現論。08年4月創刊の思想誌『思想地図』(東浩紀・北田暁大 責任編集)にアニメ論を執筆。
http://d.hatena.ne.jp/kaichoo/
緑川雄太郎|Yutaro Midorikawa
1983年福島県生まれ。早稲田大学第二文学部表現芸術専修中退。2006年「washaruー恐れることはない、とにかく「使え!」ー」、2007年「そんな顔しないでよ」(六本木SuperDeluxe、東京)を企画。また、ウンザリ出来ない生活を目指し、「Nihon」と「ART」をキーワードに展開するNARTを立ち上げる。SONYの動画共有サイトeyeVioから公式チャンネルNARTを配信中。2008年、一夜限りの荒ぶる展覧会「party」を4月18日に、自殺をテーマにした「自殺展」を9月に開催予定。
山本紀子|Noriko Yamamoto
1979年生まれ。多摩美術大学情報デザイン学科卒業。デザイン事務所等を経て、現在ワイン輸入商社に勤務しつつ、森美術館パブリック・プログラム、企画展のキュレーションや制作、現代美術アーティストのマネージメント等に携わる。2008年よりインディペンデント・キュレーター窪田研二氏のインターンを務めるとともに、4月より横浜市芸術文化振興財団勤務予定。