TALK: 0426

表現とデモクラシー

<ゲスト>
藤井光(現代美術家)
五野井郁夫(日本学術振興会特別研究員/東京大学特別研究員)

■ある芸術家が、社会を風刺してグラフィティを描いた。行政の側は目障りで好ましくないとして、その作品を塗りつぶした。ある朝、元会社員が「不当解雇ですべてを失った」とパワハラを受け解雇された会社の前でビラをくばり訴えていた。すると、元会社員は迷惑だとして逮捕された。
■この芸術家や元会社員をさしあたり「民(multitude:マルチチュード) 」と呼ぼう。「民」とは、暴力を被っている人々、飢えに苦しむ人々、搾取されている人々であり、人々の複数的な表現そのものである。
■「民」は、既存の秩序を乱し、犯罪や暴力の根源とみなされ、恐れられてきた。そのため「民」は街や路上から排除され、隔離され、不可視化させられてきた存在だった。
■本来、デモクラシーにとって一部分に過ぎない議会制民主主義は「わたしたち」の安全と安心を確保するという理由で、「民」を排除する制度を民意に反して、次々と量産してきた経緯がある。それはアーレントの言葉を借りれば、「わたしたち」の側にあるはずの「政治的なるもの」としての表現が、無味乾燥な「社会的なるもの」へと代置されてきた一連の流れであり、同時に芸術の表現から「民」が消えてゆく歴史でもあった。
■「民」の手から離れて久しい政治は人々に「立ち止まるな」といい、その“his master’s voice”に迎合する形で「民」の痕跡を残さない街を「資本主義者の理想郷(Capitalist Utopias)」として描くベンジャミン・エドワーズの“Democracity(デモクラシティ)”のような芸術作品も、ル・コルビジェが1929年に提唱してから80年を経た今、再び出現しつつある。
■「わたしたち」は「民」を排除した後、そこを「公共の場」と呼ぶことに慣れてしまった。けれども、「わたしたち」が信じ込まされている「公共性」に対して、公然と異議申し立てする者たちがいる。それは、排除されたはずの「民」たる人々による路上からの生存をかけた芸術の表現だった。
■このトークセッションでは、「わたしたち」を立ち止まらせ、「わたしたち」を思考させ、「わたしたち」に日常のなかで真撃な事実を伝える、世界中のさまざまな路上からの「芸術=政治」という表現の現在を紹介しつつ、芸術がデモクラシーと再び手を携えて歩み出す希望を、参加者らとともに模索してゆく。
■というのも、芸術を信じる「わたしたち」は、「民」すなわち、人々なきユートピアなど要らないし、公共の場=表現の場が失われつつある現在が芸術にとっての危機であり、それを取り戻す必要性に気付きはじめているのだから。

日時:2009年4月26日(日)19:00〜21:00
会場:Otto Mainzheim Gallery(アクセス
定員:30人(予約制) 参加費:1,000円(1ドリンク付)

【 プロフィール 】
藤井光|Hikaru Fujii
1976年東京都生まれ。現代美術家/パリ第8大学第三期博士課程DEA卒。芸術の資本化と特権化の論理を回避しながら、芸術を人間疎外の社会制度に対峙する行動と位置付け、美術館やギャラリーのみならず、裁判所、路上、インターネット、国会、グリーンライン(国境)、労働争議の現場で複数のコードネームを使い発表している。その他、メディアリテラシー普及の活動やアジアで活動するインディーメディアのプラットホーム構築などに携わる。
五野井郁夫|Ikuo Gonoï
1979年東京都生まれ。日本学術振興会特別研究員/東京大学特別研究員。東京大学大学院博士課程単位取得退学。専攻は政治学・国際関係論。世界中のフェスやパーティ、現代美術の国際展覧会、そしてストリートから民主主義論と公共性をめぐる表現、規範変容の関係を研究。駒澤大学、東京大学、文化服装学院などで非常勤講師を務める。主な論文に「普遍主義の帝国とその影としての周縁」(『思想』)、「クラブ:あるいは現われの空間」(『10+1』)、共著に『リベラルからの反撃』(朝日新聞社)、翻訳に『国家論のクリティーク』、『プルーラリズム』(ともに岩波書店・共訳)、最近の記事に「路上からの政治」(『朝日新聞』2009年3月14日)など。